ATELIER KIKA

2018

 

june 15 (fri) - 24 (sun)

 

花を奏でる

 

 

この200年近く前の押し花プレート一枚一枚を、GAUDINはLINNÉとJUSSIEU異なる植物学者による、植物を科に分類するシステムで書き表しています。カール・フォン・リンネ(Carl von Linné スウェーデン、1707年5月23日 - 1778年1月10日)は、スウェーデンの博物学者、生物学者、植物学者。ラテン語名のカロルス・リンナエウス(Carolus Linnaeus)でも知られる。「分類学の父」と称される。同名の息子と区別するために大リンネとも表記される。
彼は町の内科医から教えられた植物学に興味を持ち、ルンド大学へ入り、1年後ウプサラ大学(ウップサーラ大学)へと移った。
この間に、リンネは植物の分類の基礎が花のおしべとめしべにあると確信するようになり、短い論文を書いて助教授となった。
その後、リンネは大陸へ渡った。 オランダでヤン・フレデリック・フロノヴィウスに会い、分類学における彼の研究(Systema Naturae)の草稿を見せた。そこでは、当時、多くの分類法に使用されていた扱いにくい記述法 、たとえば"Physalis annua ramosissima, ramis angulosis glabris, foliis dentato-serratis"などを、"Physalis angulataヒロハフウリンホオズキ"のように簡潔で、現在身近な種名に変えた。 より上位の分類群が作られ、簡単で規則的な方法で配列された。現在二名法として知られるシステムは、その200年前にギャスパール・ボアンとジャン・ボアンのボーアン兄弟により開発されたが、リンネは科学界へそれを普及させたと言われる。
1741年に、ウプサラ大学の薬学の教授となり、すぐに植物学の教授に変わった。動物に分野を拡げて分類を研究し続けた。鉱物についても研究した。現代の視点からは、ここに鉱物が入るのは妙に感じるかもしれないが、当時の博物学では自然に存在するものを植物界・動物界・鉱物界の三界に分類していたので当然のことである。リンネは自然界の要素を分類する便利な方法を試みていただけであった。1753年に『植物の種』Species Plantarumを出版(外部リンクを参照)。植物の学名は現在でもここが出発点とされる。(wikipediaから)

アントワーヌ・ローラン・ド・ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu、1748年4月12日 - 1836年9月17日)は、フランスの植物学者。特に顕花植物の分類に関する著書"Genera plantarum"(1789年)の中で、今でも使われている科の多くを定義したことで知られる。Juss.と略される。
ジュシューはリヨン生まれで、叔父であるベルナール・ド・ジュシュー、またアントワーヌ(Antoine)、ジョゼフ(Joseph)も植物学者であった。1763年にキンポウゲ科に関する論文を提出して科学アカデミーに認められた。パリで医学を学び、1770年に卒業してパリ植物園に迎えられた。
1774年にベルナールの考えを発展させ、形態による新しい分類体系を公表したが、完成にはさらに15年を要した。彼以前のリンネによる分類は、雄蕊と雌蕊の数によって植物を分類していたので不自然な部分が多かったが、ジュシューの分類体系はより自然なもので、その後の顕花植物の分類すべての基礎となるものである。Genera plantarumについてキュヴィエは、実験科学におけるラヴォアジェの業績に匹敵する画期的業績であると賞賛しているが、ジュシュー自身もキュヴィエやド・カンドルの仕事から大いに影響を受けている。
1794年に、前年設立された国立自然史博物館の館長に任命された。1804年に医科大学の植物学教授になり、1826年まで務めた。晩年はほとんど失明したが、息子のアドリアン=アンリ(Adrien-Henri)も植物学者となり、彼の後を継いで博物館長を務めた。(wikipediaから)